ホーム   秩父銘仙   秩父札所   秩父の神社 
ホーム秩父札所 > 秩父札所成立の謎
秩父札所成立の謎

 秩父札所は、西国札所、坂東札所ができた後に成立したものと考えられていますが、それがいつ成立したのかという 点については必ずしも明確ではなくて、いくつかの説が唱えられています。たとえば、代表的なものとしては次のような説がある そうです。

正暦5年(994)3月18日説新編武蔵風土記稿の秩父郡之八の栃谷村の記述
文暦元年(1234)3月18日説新編武蔵風土記稿の秩父郡之一の総説の記述
文治3年(1188)3月18日説札所三十二番法性寺所蔵の長享二年秩父札所番付の後記


 一番目と二番目の説は、江戸時代の文政十一年(1828)に完成した「新編武蔵風土記稿」の 記述に由来するものでが、少々不思議な矛盾ではあります。

 秩父札所の歴史の詳細については、次の専門的な文献が大変に参考になります。

・秩父札所と巡礼の歴史 (佐藤 久光 2009年 岩田書院)

 秩父札所三十四ヶ所の成立については、同書の序章の「研究視点と秩父札所の成立」と第二章の「秩父札所三十四ヶ所制」 で詳細に論じられていますが、非常に興味深い内容です。秩父札所については数多くの研究が行われていますが、同書の末尾に その参考文献一覧が掲載されていますので、参考にしてください。

正暦五年三月十八日 説
 一番目の説は、「新編武蔵風土記稿」の「巻之二百五十三 秩父郡之八」の栃谷村の項の第一番観音の説明に次のような記述があるためと思われます。

「...観音霊場の開闢は、總設に載するごとく、正暦五年三月十八日性空上人を鼻祖とせり...」

文暦元年三月十八日 説
 しかし、一般には、二番目の文暦元年説が伝わっているようです。その大きな理由は、「新編武蔵風土記稿」の 「巻之二百十六 秩父郡之一 総説」に、次のような文歴元年成立を示唆する記述があるためと思われます。

 「播磨國 書寫山 性空上人 閻王の招によりて、獄中に妙典一萬部を誦し、獄中の罪人其聲を聞もの浄土に生ると、閻王 歓喜の余り くさぐさ珍寶を与え、且は衆生済度のために今に人の知らざる秩父順禮のことを示し、功徳ある證にとて石札を性空に 與へて誓をなす、茲に於いて性空 閻浮に皈り、梵天の誘引によりて文暦元年三月十八日、秩父卅四番の觀音を順禮す、同行の者 彼是 十三人、世に是を権者と稱せり、其権化と云ものは、閻魔大王・倶生神・花山法皇・性空上人・春日開山・醫王上人・白河法皇・ 長谷徳道上人・良忠僧都・通觀法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王權現 是なり... (以下省略)」

 上の記述のように、播州書寫山の性空上人は、閻魔大王に招かれて冥途にゆきて、獄中の多くの罪人を救ってあげまし たが、そのお礼として閻魔大王から石札(石の手判)を送られました。性空上人は、秩父巡拝の折、 その手判を札所二十五番の久昌寺に納めたといわれています。 これにちなんで、この久昌寺は通称御手判寺とも呼ばれています。右の写真は、その久昌寺に伝わる 「御手判石」です(久昌寺の境内の案内板より引用)。
 また、札所二十三番の音楽寺の裏山には、十三体の石仏がありますが、それらは、性空上人の巡礼に 同行した十三人(十三権者)を表すといわれています。
 さらに、秩父札所十三番の慈眼寺の本堂の右手にある一切経堂には、いわゆる十三権者の像が祀られています。
久昌寺の御手判石


札所二十五番の久昌寺(御手判寺)の仁王門


札所二十三番の音楽寺の裏山の十三権者の石仏


札所十三番の慈眼寺の一切経堂の十三権者の像1


札所十三番の慈眼寺の一切経堂の十三権者の像2


文治三年三月十八日 説
 三番目の説は、札所三十二番法性寺所蔵の長享二年秩父札所番付の後記の記述がもとになっています。 法性寺の境内には、長享二年秩父札所番付の案内板があり、それには、次の写真のように、札所番付と後記が記述された 巻物の写真(上段)、巻物の活字版(中段)、巻物の解説(下段)が掲載されています。以下四点の写真は法性寺の境内の案内板より引用。

法性寺の境内の長享二年秩父札所番付。


法性寺の長享二年秩父札所番付の巻物(拡大図)。


長享二年秩父札所番付の後記(拡大図)。

長享二年秩父札所番付の後記の活字版(拡大図)。

長享二年秩父札所番付の解説。法性寺の境内の案内板より引用。
県指定有形文化財 長享二年秩父札所番付 一巻
                 昭和三十四年三月二十日指定

 秩父札所めぐりが現在のような順路で行われるようになったのは、江戸時代 の初期といわれているが、この「長享二年秩父札所番付」には、それ以前の 古い札所の順路が記されている。
 幅二十四・五センチメートル、長さ一〇一・八センチメートルの料紙に札所 の順番・寺名・本尊名が記され、奥書には札所巡礼の意趣と長享二年(西暦 一四八八年)五月二日の日付が書かれている。巻物に表装され、保存状態 は極めて良い。
 これによると、当時、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所と共に秩父では、 一番の定林寺(現在の札所十七番)から三十三番の水潜寺(現在の札所 三十四番)までの札所巡礼が行われていたことがわかる。 現在の順番と異なっているのは、秩父大宮郷を起点に順路が定められたから であろう。
 後に、現在の札所二番の真福寺が加えられて三十四ヶ所となってから、 西国・坂東とあわせて百観音巡礼が行われるようになった。また江戸からの 巡礼者の増加にともなって札所巡礼をしやすいように順路が改められたもの であろう。
 従って、この「長享二年秩父札所番付」は、秩父において室町時代の中期 頃には既に、札所巡礼が成立していたことを証すると共に、その移りかわりを も示す資料として貴重である。
                            埼玉県教育委員会
                            小鹿野町教育委員会
                            法  性  寺

秩父札所三十四ヶ所制
 ところで、現在でこそ、秩父には三十四ヶ所の観音霊場がありますが、成立当時の数は、西国や坂東と 同様に三十三ヶ所でした。定説によると、三十三観音霊場巡りの信仰は、観音菩薩の三十三化身 に由来するといわれています。 しかし、百観音信仰を背景に、日本全体でちょうど百ヶ所になるように、秩父については、後になってからもう 一ヶ所(現在の札所二番の真福寺)が追加されたもののようです(上の長享二年秩父札所番付の解説を参照)。
 秩父の観音霊場が三十三ヶ所から三十四ヶ所に変わったのはいつかという点についても、いくつかの説があるそうですが、 一般には、室町時代の天文の初め頃ではないかと考えられています。


 最終更新日時: 2011年6月30日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.