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札所31番 鷲窟山 観音院

所在地
住所:埼玉県秩父郡小鹿野町飯田観音2211

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所三十一番鷲窟山観音院の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。
秩父重忠臣 本多次郎親常
秩父の重忠霊夢の告によって、當山に田獵をせしに、遙かの梢に鷲の巣に篭れるを見つけて、親常に命じて射さしめしに、 其矢一本としてあだ矢なく當るといえども、みなはね反えるがゆえ、重忠ふしぎに思ひて、その巣を取りおろさせて見ければ、 巣のうちに聖観音の尊像れいれいとして在せしかば、霊夢を感得して郷民にこれを拜さすれば、古へ當山に寺院これありて、 行基の刻せし観音の霊像ありしが、承平五年相馬の将門の兵乱に国中の神社佛閣廃壊に及びしと、古老の物語これあれば ある。有がたやふしぎや是こそその尊像にましませりというをもて、重忠いよいよ信じて急ぎ御堂を建立してより重忠の一門 残らず帰依しければ、其霊験また鏡にむかうが如くなりしとぞ。當山の奥の院に重忠の馬繋、親常の矢の跡などという旧跡 あげてかぞへがたし。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳」が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝」 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻」(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻」(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、観音院について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。

第三十一番 鷲窟山観音院(御堂三間四面南向)
本尊聖觀音 座像御長一尺八寸 行基菩薩御作
此本尊は行基菩薩當郡の霊地數ヶ處を開闢ましませし時、此地も等く本尊を彫刻し給ひ堂塔建立し給ふ。 後佛法流布の霊地成しを、承平五年相馬の将門が兵亂に、國中騒動して國民皆離散し、神社佛閣廃壊せ しより、此處は無佛世界とも云つべく、本尊も何人の何れの地へか移奉けん、更に知者もなく年月を經 て、鎌倉の右幕下頼朝の海内を治させ給ふ頃、當國の住人庄司重忠一日此處に田獵して鹿を追て當山に 登 其臣本田、榛澤、久米、高野、引間、小櫃以下の兵士數十騎相従、其武備の厳重成整々として隊伍 亂ず、元より重忠は寛仁大度の名将、當時の君子と仰がれ、民とゝもに樂をしければ、芻蕘の類迄欣 々然として道を清、大路に伏して拜しける。重忠馬上より梢に一つの鷲の巣に籠れるを見て、誰か有あ れ射て落と下知しければ、親常仕り候はんと馬上より放ける、矢の飛かえつて鐵壁を射るが如し。榛澤、 引間、吉田、大宮など云兵ども、吾も吾もと射かくる矢の鏃碎て玉ちる計、鷲は虚空に飛去ぬ 重忠い ぶかしく思て、何様此巣に子細あらんずるぞ探て見よとあれば、承ぬと兵ども走登て、難なく鷲の巣を おろして各立寄是を見に、御長一尺八寸の正観音の像座す。重忠馬より飛で下り、本尊を岩上に立て恭 敬禮拜して、かゝる奇瑞あらんとてか 昨夜不思議の夢を見つる、所は何地とても覺ず田獵に出しに、い さゝかの小鳥一だに取得ず、夢心に甚怒て馬引かへす處に、白髪の老翁轡にすがりて今日は何の御得物 も侍らじ、明日出させ給はゞ必よろしき獲あらん、疑はせ給ひぞとかきけして失ぬ、跡に短冊有、取て 見れば文字有、行基の二字ありと見て夢さめぬ。傳聞く商の高宗夢相に依て良弼傳説を得たり、周の文 王も呂尚を得給ふ、必よろしき獲あらんと志て來し處に、今此尊を得たり、必行基菩薩の彫刻成べし、 夢中に見し行基の二字暗に不違けりと、感歎の餘り此地の古老を召出して、汝等此地の昔寺院成けるか 不知やと尋問はれければ、郷民ども申けるは、己等いまだ幼なかりし頃、古き人の語侍しは、此處往古 は貴き寺院にて、行基菩薩とかや申名僧開基し給ひ、佛法繁昌の霊地成しが、兵亂に悉く破却せられ、 本尊も堂塔も跡かたなしと云傳ふと承り侍べると申せば、重忠彌信仰して急ぎ御堂を建立せしめ、本尊 を安置し自供養の禮を盡し、日々に参詣して渇仰の首を傾られし。是當寺中興の來由にして、代々重忠 の家臣等が末裔當國の所々に散在せるも、亦當郡に居住の者も 各祖先の志を繼で、今に於信仰不淺と かや。


鷲窟山観音院
 札所三十一番、鷲窟山観音院の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
 小鹿野町指定史跡
  札所三十一番 鷲窟山観音院
 秩父札所中最西端の当観音院は、秩父霊場中随一の称のある景 観を備えている。
 この地を西方浄土として照見したのであろう。境内の岩壁に 南無阿弥陀仏の名号を刻し、その下位に弘法大師の一夜彫りと 伝えられる県指定史跡「鷲窟摩崖仏」がある。東奥の院には数 十体の石仏群像のほか、山頂に宝篋印塔、芭蕉句碑等がある。 また西奥の院にも多数の石仏が安置され、幻想の世界に誘われる。
 本尊の聖観音像は霊験記によれば、畠山重忠当山に狩猟の折、 鷲の巣籠れるを見、家臣本田親常に矢を射させたが、再三矢が はね返された。不思議に思い、その巣を見れば中に聖観音おわ し、これこそ郷民の言い伝えるその昔、行基の刻みたる観音像 なりしと、親常に命じその本堂を建立せしめたという。その後 盛衰ありて、幕末の頃、本山中興二度開山十六世観法法印、さ ざえ堂式の本堂並びに境内の大宝篋印塔等を建立する。観法法 印没後の明治二十六年二月本堂焼失する。その後長らく仮堂の ままであったが昭和四十七年四月現在の本堂が再建された。本< 堂左後方岩上より落下する二十余メートルの清浄の滝は清々し い。山門の石造仁王尊は、信州の石工藤森弥一寿の名作にし て、像高四メートル。その規模は本邦第一と称される。
               昭和三十七年九月二十日指定

観音院の由来


観音院の仁王門


観音院の仁王門の中の仁王様


観音院の仁王門の中の仁王様


観音院の仁王門の後ろ。長い石段の入り口。左手に巨大な手。


観音院の仁王門の後にある「手助け仁王」の案内。


観音院の本堂へ至る長い石段の途中にある十二支霊場。


観音院の境内にある案内図。中央下部の仁王門から長い石段を登って、観音院の本堂へ至ります。


観音院の境内。中央が本堂。背後の巨大な岩壁をくり抜いた場所にあります。


観音院の本堂。


観音院の本堂の近接写真。


観音院の鐘つき堂。


観音院の大師堂。


観音院の慈母観音。


観音院の聖浄の滝の池。


観音院の聖浄の滝。


観音院の不動明王。清浄の滝の右手にあります。


観音院の境内の大宝篋印塔。


観音院の磨崖佛の碑。


観音院の磨崖佛。


観音院の弘法大師像。


観音院の本堂の右手の新生代第三紀の地層。


観音院の東奥の院ミニハイキングコース案内図。


観音院の東奥の院。


観音院の東奥の院にある香塚(芭蕉の句碑)。


観音院の東奥の院の矢ぬけの穴の案内。畠山重忠の家臣本田親常が矢を射通したという岩孔(現在地より1Km遠方)。


観音院の東奥の院の下方の石仏群。畠山重忠の駒繋ぎ場。本田次郎親常馬繋跡。


観音院の西奥の院の見晴らし台(がけ崩れのために現在は立入禁止)。


 最終更新日時: 2011年8月3日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.