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札所30番 瑞龍山 法雲寺

所在地
住所:埼玉県秩父郡荒川村白久432


観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所三十番 深谷 瑞龍山 法雲寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
唐鏡
當山いまだ開基ならざる昔、尾州熱田の社人拜殿に通夜しければ、異国の美人一面の鏡を捧げていうよう、汝 此鏡を武州秩父郡深谷に奉紊くれよ、彼地は如意輪の霊場なれば後年必ずその験あり、その時此鏡仏像の後光なる べしと告て失せぬ。社人夢中に是を聞て驚き、あたりを見れば一面の霊鏡あるによって是を持ちて深谷へおもむき、 一人の翁に渡して戻りぬ。
斯て元應元年鎌倉建長寺の道隠禪師が、唐朝玄宗皇帝楊貴妃が冥福のため、自ら刻たる如意輪の像を上空三蔵 に開眼させたるを、ここに持ち来りて本尊となせしかば、かの翁昔受取り置きし鏡を出して、しかじかと告れば、 禪師奇異の思ひをなして、汝は何者と問ば、吾は此深谷に千歳住む悪龍なりしが、救世尊を信じて善竜となれば、 今天生の時至れりという下より、忽ち風雨を起して飛び去とき、庭前にのこす竜骨、今に宝物としてあり、又 昔の武家の順礼札其外霊宝あまたあり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、寶雲寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第三十番 瑞龍山寶雲寺(御堂五間四面南向)
本尊如意輪觀音 座像御長一尺二寸 唐佛
當山深谷は如意輪有縁の霊場、徃古より三十四所の霊地の中に、三十番と定て巡禮の輩拜し奉る處の梵 刹也。然れども本尊はいまだ何れと定奉りし事もなかりしにや、星霜遙に後れて、人皇九十五代後醍醐 天皇元應元年己未建長寺の道隠禪師、本尊を異邦より将來して當山に安置し給ひ、自も此地に閑居し給 ふ。是より永く此地の本尊、如意輪の威力を東關三十二州に加へ、十九説法の春の花無刹上現の薗に開く。 されば影森の本尊大師彫刻の後光佛にも、數百歳以前に此の尊の御影も刻給ひし上は、因縁に任て本尊 出現の時節遅速をなじからずと雖も、利益は平等にして甲乙有に非。抑如意輪觀音は六觀音の惣體とし て天道の化主也。本尊の文に云く、若我誓願大悲の中に、一人として二世の願を成ぜずんば 我虚妄罪 渦の中に堕て、本覺に還らずして大悲を捨んと有信心の男女仰で恭禮し奉るべし。昔此本尊、未異國よ り渡らせ給はざる頃、尾州熱田の社人何某霊夢の事ありて、遙に此深谷の霊場に尋來て里人の語て云、 下官は是熱田の神職也、去頃拜殿に通夜せし處に、其姿異國の官女と覺しくみやびやか成女來て、一面 の鏡を以て予に與へ、汝此鏡を以て武蔵國秩父郡深谷と云處に至て奉紊すべし、彼地は如意輪の霊地に して後年必佛法流布の地とならんと、亦内陣の方へ行よと見へて夢さめて、あたりを見れば此霊鏡有、 取て見れば鏡中の官女が姿あらはれ、夢中にまみへし面影のもの上云笑ぬのみ也。吾其霊夢にまか せ遠く此處に來りて霊鏡を紊んと欲す、何處にか奉紊せんと問ふ。里人の曰、此地はさる子細有て、足下 の夢相に上違如意輪觀音の霊地にして三十四所の一つながら、未本尊とてもましまさず 只巡禮の拜禮 の為に僅成艸庵有のみ、然れども假初ならぬ夢の告にて遙々と此處迄來り給ふ、此艸庵に紊させ給へ、 此處幾程なく必本尊も現來し給ふべし、未因縁時至らで如此疑なく某に與へ給へと云ふに任、社人は 霊鏡を翁に授て本國尾州に立皈りぬ。斯て後、元應元年鎌倉建長寺の道隠禪師、當山の風景閑居の地と するに堪たりと聞給ひて其鏡を見給ふに、聞しは物の數ならで甚其心も叶給へば、先其地の因縁を尋ば やと思給ひ、里人や有と呼給ふ。言下に一老人鳩の杖にすがり、鶏皮鶴髪たるがよろぼひ出、禪師を拜 して吾れ久しく禪師の此處に來り給ふを侍、師将來し給ふ處の霊像を以て當山に安置し給、數百年前よ り此地必ず如意輪の霊場たらんと、弘法大師の懺文疑ふべからず、吾此山に住て本尊現來の時節に遇は んと欲する故は、其住昔尾州熱田の神官何某に一の霊鏡を預り置く、是則将來し給ふ本尊に離れがたき因 縁有、必ず霊像の後光とし給へ、其亦霊像を拝して後、禪師の教諭に依て解脱を得んと欲す、乞早く本 尊を此處に将來し給へと、件の霊鏡を禪師に捧て去ぬ。禪師感歎し給ひ、急ぎ此地の艸庵を新に一宇の 梵刹とし、異邦より将來し給ふ處の如意輪の聖容を本尊とし給へば、郡中の僧俗他邦の男女羣集して拜 し奉る。時に以前の老翁亦來て禪師を拜し本尊を恭敬して、参詣の男女に将そて示て曰、抑此本尊は唐朝 第七主玄宗皇帝、貴妃冥福を助んため自ら彫刻ましまして、上空三蔵に開眼の加持を為しめ給ふ霊像也、 禪師此像の民間に有て其縁起も定かならねど、尋常の佛にあらずと遙に萬里の波を凌て日本に尋來し給 ふ。此地徃古より巡禮の道場なれども、本尊未ましまさゞりしは今日の現來を期しつる故也。此翁が言 を疑はで能々語傳へよ、吾、是數千歳此深谷に潜り往る非法行の龍也、此所如意輪の霊場たらんと、弘 法大師封じさせ給ひて後、三十四所の巡禮觀音の御吊を唱へ拜し奉るを見て、忽然と善心を發し、参詣 の男女を守護し、法行の龍王の部類と成ぬ。是より通力自在を得て未來の吉凶 世間の変化掌を見るが 如し。吾そのかみ里人と化して熱田の神人を攝待し、霊鏡を受取 是則揚大眞が持たりし鑑なれば、是 を以て本尊の後光にすべしと、兼て禪師に現し奉ぬ。時これ初秋に至れども旱して民苦む、吾只今法施 として大寶雲を起し、大香雨を降て五穀成就せしめん、人々吾本體を顕すとも必怖るゝ事なかれと、禪 師に向て吾今大雨を降して後、此地に龍の皮骨を止め、解脱して天上に生れんと云かと思えば、雲走て 飛ぶ如、翁の所在を失ふ處に、雲中に龍體を顕す。僅に數尺を露と雖も、背螺青を抹し腹珠白閃、矯々盤 々、滃雲捲雨電光輝わたり、田野悉く潤ひ民鼓腹して歡喜す。雨止て庭中に龍骨を得たり。禪師是を 收て當山の寶物とす。是より永く當山に禪師を以て開祖と仰ぎ、将來の如意輪を本尊と崇奉る寺を瑞龍 山寶雲寺と號するも、龍の言葉によれる者也。



瑞龍山法雲寺
 札所三十番、瑞龍山法雲寺の由来については、境内に下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
秩父札所三十番法雲寺
           指定史跡

 臨済宗建長寺派の寺院で、開創は一三世紀中頃の鎌倉時代である。
 本尊は如意輪観世音菩薩で唐の玄宗皇帝の作と言われる。 皇帝が戦場にあって楊貴妃の冥福を祈り、観音の御心に すがる真情がうかがえて、美しく尊厳に満ちたものである。
 堂宇は江戸初期には観音堂、本堂、二王門等を備えていた が嘉永年間(一八四九頃)火災に遭い、観音堂のみを残し悉く焼失した。
 昔日の面影を残す観音堂と四季折々の花で彩られる浄土庭園との調和 は見事であり、訪れる人々の心を和らげてくれる。

法雲寺の由来


法雲寺の本堂手前の石段。


法雲寺の本堂。


法雲寺の本堂の近接図。


法雲寺の縁起図。


法雲寺の 秩父順礼花浄土。


法雲寺の浄土庭園 1。


法雲寺の浄土庭園 2。


法雲寺の地蔵尊。


法雲寺の観音像。


法雲寺の 動物の霊を供養する山水群霊の碑。



 最終更新日時: 2011年8月19日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.