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札所28番 石龍山 橋立堂

所在地
住所:埼玉県秩父市上影森675

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十八番 橋立 石龍山 橋立寺(橋立堂)の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。
郡司報蛇身
昔此村の者、頓死して閻王の前に徃きければ、一人の武士を引出して、此者を知るやとあり、よく見れば我領主の 郡司といふものにて、生得邪見の者ゆへ殊に驚きて敬ひければ、冥官のいうよう、此郡司娑婆にて大悪を尽し、 なかんづく地蔵の像を毀ては無間に堕すべき者なりしが、鹿を追って橋立寺にいたり、矢尻をもつて一度燈明を 掻たてたる功徳によって、永劫その難を免るゝといへども、今より蛇身の報をうけて娑婆にいづるなり。是を 知らしめん為ここに呼ぬ。とく帰れといふ声の下に頓死の者蘇生りて、里人等にしづしづと語る。其頃より此霧の 海といふに、悪龍出て人馬を喰ふがゆえ、村民此堂に祈念しければ、御堂のうちより白馬出て、彼龍に呑まれ終に 其悪龍得脱して蟠り石となりたる姿、今も洞中に顯然たり。ここを以って石龍山といふ。當山の奥の院は日本で 一か二かといふ霊窟なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳」が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝」 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻」(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻」(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、橋立寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第二十八番 石龍山橋立寺 (御堂三間四面南向)
本尊馬頭觀音 座像御長一尺三寸 弘法大師御作
當山の本尊馬頭觀世音は、弘法大師此郡中に兼て霊場たるべき處を見そなはし給ひ、其地の縁に従ひて 本尊を彫刻し給ふ時、當山にては此山に年久しき柚の木を以て彫刻ましまし、其残れる處の柚の木を地 中に指し給ふ。今其木堂前にあつて、此地の佛法とともに昌へを萬代に傳ふ。されば六觀音の中に馬頭觀 音と云は、大悲の應用利益の甚深成事、馬の只水草を念て餘の所知なきが如しと云心也。例せば彼千手 を揚柳觀音と云は、穴太流義の説に揚柳の春風になびくが如し。六觀音の中に聖觀音に約すと云。然れば馬 頭も前に云が如成べし。當寺本尊の建せ給ふ御堂は、人家を離る、事數百歩、松柏生茂り巌そば立て容 易登り難し。然れども當時巡禮の老弱平地を行が如く登山する事、豈施無畏者の大悲方便不為や。奥の 院に大日如来の佛巍然として坐す。此處に霧の海と云漂有。水色尚藍よりも青し。若此地に釣する者あ れば、其人必ず難有と云傳ふ。昔此山の麓に銅を以て作れる地蔵菩薩立給ひき。何の代誰人の作れると 云事を不知。然るに其頃此あたりを領ずる何某とかや云し男、其性惨酷、民をしへたげ家人を害し、戮 辱を被る者數しれず。因果報應の理を説者有は呵々大笑して罵て曰、釋氏民を惑の常談也、大丈夫何ぞ 歯牙にかくるに足んや、古き狂歌に古の松か風をや倒しけん今亦風か松を倒せばと云し如く、因果報應 と云事更になしと。國中に佛經祖録を講ずる者有ば、必放逐して境を出す。一日此所を過て銅佛有を見 て、是大成る國土の費なれば、早く此銅佛を毀て世間の財用を足べしと下知す。里の長、馬前にひざま づきて此像當所に立事往古より今に及で、往還の人民恭禮して捨邪皈正の基、恐ながら君の政治の助に て侍れば、此儘に捨をかせ給へかしと、手を摺てわびければ、領主馬上より叱て曰く、土民等みだりに 舌を不可動、吾何ぞ銅鐵の胡鬼の像を以て政道の助とすべき、知らずや汝等が貴と云佛説に、身肉手足 及妻子施とて、己が頭目髄脳を以て布施とし、己が妻子迄施し與へて成佛せん事を求む、是佛の心なれ ば此銅佛惜に足んやと。冶工に命じて則時に毀ち鋳つぶして、己が財用の助とし、彌凶悪を恣にせしが 一朝忽に腫物を發し、身體腐爛して死し、子孫相續て亡うせ、跡方もなく成果ける。其頃此邊の者頓死 せしが、身體未温なれば葬の事も卒時に沙汰せず、蘇生を侍ける處に、二三日を經て息出ければ親族悦 ぶ事限なし。其時彼者語て曰、吾眠の中に數千丈の谷へ轉落が如く覺しが、忽廣き原野に唯一人さまよ い出ぬ。向に巍々たる鐵門有、左右に異形の人列立て門を守る。一人來て吾を捕へて門内に到る。内に は百官卿相とも云つべき人々、威儀を正して座し給ふ、其數星の如く列る。大王高座に座し給ひ、吾を 視給ひて汝させる罪悪もなく、亦今此界に至るべき時にあらねど、汝が郷里の人に告知しめん事有ば、 此處に招し也。此者を見よとて一人の罪人を召出さる間、近く寄て見れば娑婆界にて恐れ敬たりし、古 き領主何某の郡司と云し男なれば、心中にいたましく思てつらつら見もやらず、一宦人すゝみ出て汝今 娑婆界に皈て、此事を語て人をして善に進み悪を退く鑑とすべし。この罪人是より此界を出て舊里に 毒蛇の身を受くべし。是汝等が知る處の罪悪深重の郡司なれど、鹿を追て橋立山に到て、佛前にのぞみ 暫く休息しける折から、佛燈消なんとせしを矢尻を以て掻立たりし、此功徳空しからで永劫も無間に堕 在すべき身の先獄中を出たる也。小善と雖も必ず為べきの験ならずや。然れども彼が罪甚多ければ尚も 鬼畜の身を受たりと、具に演説し給ひ、獄中より郡司と共に送り出さるゝと覺へて、夢の覚たる如く息 出たりと語りける。然るに其頃より此霧の海に大蛇出て、牛馬六畜を食事限なし。亦此里の憂と成ば、 村里の老少同心に當山に祈請しければ、一日此邊に何地ともなく白馬一疋出來り、心よげに走り廻る時 に、此の水中より霧起て東西をも辨へず、水逆まき火光ほどばしりて大蛇現出例の如く、此駒を只一口 に呑とす。此駒三度嘶て額より光明を出し毒蛇の口に入よと見へしが、忽大蛇人語をなして有難や吾獄 中を出ると雖も、未鬼畜を離れず、いとゞ凶悪を重たるに、大悲の佛智にひかれて今當に得脱を得た り、吾此姿を末代に止め衆生の信心をはげまさんと、池中を出て蟠れば金鱗変じて石と成て今に残れり。 扨こそ石龍山とは號し侍る。件の駒は則ち本尊の御帳の内に走り入ぬ。則本尊の化現成事を語り傳へ侍 る。當山奥の院の岩竇に、補陀洛浄土の荘巌並に郡司が落し無間地獄の體相、自然の天工絶妙其石龍の 勢現然たれど、去る子細有て今は人を此洞中に入事を許さず、今も郡中に牛馬の病る有ば、當山の笹を 喰しむ。治せずして死すべき牛馬は笹を不喰。毎年正月十八日所々より牛馬を牽來て其病を祈る事、往 古より今に至る。


石龍山橋立堂
 札所二十八番、石龍山橋立堂の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所二十八番
  石龍山 橋立堂
 この札所は、高さ八十米もある石灰岩の直立した岩壁下に建てられ、 堂は三間四面、宝形屋根で江戸中期になるものといわれます。
 本尊は馬頭観世音坐像で、像高二十八糎の小さなものですが、三面 六臂の姿はひきしまり、鎌倉時代の優秀な作として、昭和三十三年七月 市の指定文化財になっています。
 縁日には近在から来る馬を曳いた参詣者で雑踏を極めたといいます。
 その昔この地に惨酷非道、仏神の信心なき領主、領地をみまわり、銅を もって鋳し地蔵菩薩像を里人崇敬し得るをみて、仏神の益何事あろうかと、 打ちこわしその財を己れに費やせば、領主たちまち病に死し、その子孫す べて跡方もなく消えたという。
 まもなく大蛇出て里の憂いとなり、里人は一心に当山に祈ればいづく なく白馬現われ心よげに走り大蛇この馬を一口に呑まんとするに、白馬 の額より光明をさせば、たちまち大蛇人語を発し「吾先に死し領主なりい ままさに仏知にひかれたる得脱を得たり、吾この姿を末代にとどめて衆生 の信心をはげまさん」と池中より出れば金鱗変じて石と成り、白馬は本尊 の御帳に走り入りたという縁起があります。
         昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

橋立堂の由来


橋立堂の本堂の手前の石段


橋立堂の本堂


橋立堂の本堂の近接図


橋立堂の本堂の縁起図


橋立堂の地蔵


橋立堂の馬堂。中には左甚五郎作という白馬の像があります。


橋立堂の背後の巨大な石灰岩の岩壁


 最終更新日時: 2011年8月15日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.