ホーム   秩父銘仙   秩父札所   秩父の神社 
ホーム秩父札所 > 札所26番 万松山 円融寺
札所26番 万松山 円融寺

所在地
住所:埼玉県秩父市大字下影森348

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十六番 下影森 萬松山 円融寺の霊験記の錦絵です。 下部には霊場境内の風景画が描かれ、上部と下部には霊場の縁起にまつわる逸話が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。
秩父次郎重忠
當山は、空を凌ぎし高山にて、猶奥院に登りては、月宮の桂も折る可、深谷を臨みては、森々として結清水煩悩 の垢を清め、岩上には愛宕金毘羅を鎮護の神と崇め、都て岩竇に弘法大師の護摩壇石佛、國禪師の座禪石、その外 諸神諸佛の尊体堅固に並立玉ふ絶景の霊場也。
當國の住人、秩父別当武基が玄孫、太郎重弘此尊像を信じ、大檀那たるがゆへ、其子重能、此子重忠ことに信じて、 霊験を蒙ること少なからず。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳」が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝」 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻」(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻」(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、圓融寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。

第二十六番 萬松山圓融寺(御堂三間四面南向)
本尊聖觀音 立像御長五寸七分 恵心僧都御作
抑當山は空を凌ぎ雪を挿む高山林木合抱、秩郡に標たり。其道羊腸枝をよぢ岩根を踏で登る。檜ばらの 奥いと闇きに漏來る月日の影を便り、とくとくの雫に渇を助て、仰て石上に踞すれば月宮の桂も折べく 伏て深谷をのぞめば金輪の際も量りつべし。南は武甲山に隣り、西の方龍河山に向ふ。尚某奥の院に至 れば、東の方四萬部、木戸原も遠からず。北は影森、熊木の秋色極つべし。此處に愛宕大權現を勸請し て當山鎭護の~と崇。すべて此あたりの岩竇石壁に諸佛の像の立給へる、其數を不知。風雨を覆のまふ けなけれど、尊要の荘巌はすこしも損ぜす、面容笑るごとし。是必ず高野大師以下の代々の大徳、此山 の箜寂清浄を尊み、登山の折から各彫刻し給ふ處成べし。經にも入於深山思惟佛道と説給ふ。仁者は山 を樂むとも云て、内外の二典閑寂を愛せずと云事なし。世尊の鷲嶺。迦葉の鶏足、文殊の五臺、觀音の 洛山、南岳の大蘇、天台の花頂、傳教の北嶺、弘法の南山、何れか閑静なるの地ならざるや。山上に登 るを禪定と云も、禪とは具には禪那、此に思惟修と云、又は静慮と云。閑寂の深山に登りて佛道を思惟 するが故にしか云。されば當山いまだ開闢せざる古へ、弘法大師諸州を遍路し給ふ時、此處必ず佛法流 布の霊地たるべしと、岩のはざまに檀をかまへ三七日秘法を修し給ふ。満ずる日紫雲たなびき異香薫じ 觀音現來し給ひ、善哉空海此地必ず霊場たるべし、後一人の大徳來て吾形を彫刻すべし、其時亦現來せ んと、佛勅をはつて紫雲に乗じ、西の空に隠れ去り給ふ。大師御跡を拜して當山の佛法繁昌のため、岩 竇を封じ心印を結で加持し給ひ、此地を去て他方に赴き給ひ、其のち恵心の先徳、佛の告に依て此山に 到りたまひ、其境の閑なるを愛し、岩窟に至て見給ふに、洞中より光明山林も輝くばかりになりて、天 悲の聖容現給ひ、大徳此地に至るを侍つ事久し、吾が形を寫して此地に安置すべしと曰。僧都拜し奉る 處の聖容に一點もたがはず彫刻し給ひ、巌の上に安置し給へば、來現の尊容大光明を放ち彫刻の像を照 し給ふ。僧都感涙を止めかねて禮拜恭敬まします間に、來現の聖容直忽に見へさせ給はず、此に於て里人 に命じ、小堂を建安置し給ふ。先徳亦此地を去て横川に皈らせ給ふの後、星霜を經て當國の住人秩父別 當武基が玄孫、秩父太郎重弘此尊を信じ奉て、堂舎再興の大檀那と成ぬ。其子重能、其孫重忠、代々此 尊を信じ奉る事他に異なりき。佛國禪師亦此地の寂たるを悦び、禪定に入給ひしかば、本尊屡現給ふと ぞ。今も禪師の座し給ひし座禪石、大師の護摩檀石など境内に現存せり。


万松山円融寺
 札所二十六番、万松山円融寺の由来については、境内に下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
 市指定史跡 札所二十六番
  万松山 円融寺
 この札所の本尊は恵心僧都の作といわれる八寸七分の立像聖観世音で 現在は圓融寺本堂に安置されているが、かつては岩井堂に安置されて いた。岩井堂は寺より南へ約一、五粁に元久二年(一二〇五年・ 鎌倉時代)に建立した。周囲は急峻な地形で岸壁におおわれ、その 中腹に三間四面の方形造りに、匂欄をめぐらし唐様の細部をなした 美しい堂です。
 正面谷間に向けての舞台造りは、京都の清水寺の舞台を偲ばせます。
 眼下百米谷川よりの霊霧、眼前の武甲の雄姿を収めたこの堂 に身をおく時、まえに補陀落の浄土をみるに似ます。
 岩窟にはその昔、弘法大師三七日の秘法を修めたという護摩壇、 仏国禅師の座禅石、秩父別当武基の玄孫、秩父太郎重弘、その 子重能、重忠等の信仰も深かりし縁起もあります。
 本寺の本堂には昭和三十三年七月市指定の文化財「勝軍地蔵立像」 像高一二一糎、木造寄木造りで玉眼入りの鎧の上に環甲の袈裟を つけた鎌倉時代の優秀作といわれる仏像が安置されています。
 この他、県指定文化財烏山石燕の「景清の牢破」絵画額等もあります。
  昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

円融寺の由来。


円融寺の本堂。


円融寺の本堂の近接写真。


円融寺の本堂の手前の観音像。


円融寺の 石燕の納額「景清のろう破り」一面 の由来。


円融寺の 石燕の納額「景清のろう破り」。


円融寺の牡丹園。


円融寺の岩井堂への案内図。円融寺から岩井堂までは、徒歩で約30分。途中、昭和電工秩父工場の構内を通り抜けます。


円融寺の岩井堂への途中の琴平神社の鳥居。昭和電工秩父工場の構内を通り抜けたところ。この鳥居の右側の道を登ります。


円融寺の岩井堂へ至る石段。300段を超える長い石段。


円融寺の岩井堂附近の案内図。岩井堂へは、上の長い石段だけでなくて、琴平神社経由でも登ってこれます。


円融寺の岩井堂の途中にある琴平神社。岩井堂へは、この本殿の裏手を登ってもこれます。


円融寺の岩井堂の直前の方向案内。


円融寺の岩井堂。


円融寺の岩井堂の近接写真 1。


円融寺の岩井堂の近接写真 2。


円融寺の岩井堂の裏手の岩穴の石仏群。


円融寺の岩井堂の裏手の岩穴の閻魔様。


 最終更新日時: 2011年8月10日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.