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札所25番 岩谷山 久昌寺

所在地
住所:埼玉県秩父市大字別所1586

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十五番 久那 岩谷山 久昌寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
奥野の鬼女
昔徃、久那の岩洞に鬼こもれりとて、さらに徃来するものなき来由は、奥野という一処にすむ女房、大悪のものなれば、 懐胎の身にて、一類に見放されて家を出され、此所の麓に住みけるが、猶悪計のことありて荒川へ打込まれしが、 からき命を助りて、又この山ふかくに忍び居て一女を産む。この娘十五歳の時宿業尽しにや、身罷りければ、娘は 殊更嘆きにしづみし所へ、弱かなる女人手に花を持ていうよう、汝が母は後世地獄に堕せり、夫を助けたくば観世音 の御吊を唱へて祈念せよと教ゆ。また象殿の神あらわれて告げ給ふには、今一人の旅僧爰に来たれば、それに値偶 して里人を語らひ、此地に観音の堂を建てよとありしに、果して、一人の旅僧來れば、始終を語りて頼みければ、 僧は娘をつれて里へ出て、しづしづと語て勧化すれば、その鬼女の一類および里人も力を合せて、間もなく堂舎ととのひ ければ、僧の持し観音を本尊とし、又十王の像を作りて鬼女の菩提を弔ひける霊地なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、久昌寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第二十五番 岩谷山久昌寺(御堂三間四面東向)
本尊聖觀音 立像御長一尺四寸 行基菩薩御作
今は昔、此久那の巌洞に鬼こもれりとて、あかねさす晝さへ木樵艸刈も行通はず、鳥羽玉の夜は麓の里 も戸を閉て、芦垣の間近き隣にだに音信も無く、恐あへり。斯て年を經たるに、或時行脚の僧來て此山の 木立常ならず、定て霊地なるべし、里人に嚮導せよと云へば、あなおそろし命二つもてらん人社彼處へ は行侍らめと、誰導べしと云ふ者なし。修行者の曰、上借身命は吾本意也、何の怖かあるべきと、獨山 奥に分入ぬ。元來此年月鬼住岩屋ぞと、猟夫の行通を路さえ荊棘生しげりて、足も運がたきを、辛して 岩屋の邊に至て事の様を見に、さして怪き事を無れば心静に念誦して居たるに、岩屋の中に女の聲にて 觀世音菩薩母が後のたすけ給へと唱へて、さめざめと泣く聲せしかば、急ぎ岩屋に至て洞中を覗見る に、一人の少女老たる女の死たる側に、うち伏て泣にぞ有ける。少女此僧を見て衣の袖にすがり先もの も得云でよゝと泣ぬ。しばし有て有がたや、是則大悲の方便成べし、此亡者はみづからが母にて、上の 山と云奥野の者成しが、恥や其心荒く父母にも疎み果られ、親類知音も交をたちて、自を懐胎しながら 其家を追出され 此麓の里に暫く足を止めしかど、邪なる心から此處も立ち去て、そこよこゝよと所定ず 走り廻れば、鬼よ鬼よと云たてられ、果は情なや男共集寄て荒川に沈られ、浮ぬ沈ぬ流しが、未定業に てや上有けん、からめし縄目とけて岩根を踏、葛をよぢ、此迄のがれ來り、菓を取て命を繫中に、自 を生落し生長して今年十五年の春秋を送、其間露命を繫んために山中を廻りて菓拾ひ、谷水を結んで渇 を止む。折から里人の來るに行逢い、此處に生て有を知らば亦害せられん事を思ひ、必鬼女の如く振舞 幼稚成者に出合時は心ならず喰付などし、里人の來らざる様に計ければ、案の如く里人鬼こもれりと云 ふらして、今日迄人のそれと知る者も侍らず、されば吾が母命終に及で、始をはり具に物語して息絶侍 べる。自は唯哀にかき暮、殊更此山中に母より外に友とするは鹿猿の類のみにて、後世なと云事は可知 もあらぬを、面容照かゞやく女の手に花を持たるが立より給ひ、汝か母今死たり、後の世は地獄とて怖 き國に生る汝吾教へにまかせ、南無觀世音たすけ給へと一心に唱へよ、必す母は吾如き形と成べしと念 ごろに教へ給ひ、亦目細く耳たれて鼻長き人來て、吾は此地に象殿と稱ぜらるゝ小社の神也、只今一人 の僧至るべし、彼人にちなみて麓に下り、里人と心を合て此地に精舎を建て、十王の像を刻み、觀音を 本尊とせよ、此地必ず永世に傳へて佛法繁昌の霊場たらんと告させ給ふ。早く忘母がために寺を建てた へと泣々申ければ、旅僧手を拍て吾昨夜夢の告有て此山に登る。里人鬼住りとて止しかど、をして上り しは此故也。とく此處に寺を建つべしとて、少女をともなひ里に下て始終を語れば、里人始て鬼女は奥 里の女成事を知り、娘が親祖父さえ尋來り各力を合て終に堂舎成就し、旅僧が持來し觀音を本尊とし奉 りぬ。此僧も是権化の人なるべし。當寺に閻王の手形と里人の稱する寶印あり。其來由當寺の神秘なれ ば知がたし。彼象殿の神の告に、十王を刻で建つべしとあるを考へ見れば、閻羅の寶印有も故有事にや あるべし。象殿とは觀喜天の事也。聖天を象頭の毘那夜伽ともいえば、聖天なるべし。


岩谷山久昌寺
 札所二十五番、岩谷山久昌寺の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所二十五番
     岩谷山 久昌寺
 この札所は通称御手判寺といます。この由来は播州書写山 の性空上人、秩父巡拝の折、閻魔大王から贈られた石の手判を当寺に紊めたという。 これにちなんで御手判寺ともいうのである。
 堂は三間四面、表流れの向拝をふした方形造りで堂内には宮殿形の厨子がおいてあります。 本尊は聖観世音立像一木造り像高五十六糎室町時代の作といわれます。
 その昔、上ノ山奥野の女、心荒く父母親類縁者のも疎み果てられ、自ら懐胎の身ながら も追いたてられ久那の岩洞に住み、鬼女如く振るまい里人に恐れられていました。
 女の子生まれて母に似ず神仏を尊び里人の助けにより、旅僧の持ちし観音像をまつり、 母没後の菩提のためにこの地を霊地にしたという、これが寺の草創である。
      昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

久昌寺の由来


久昌寺の仁王門


久昌寺の仁王門の仁王 1


久昌寺の仁王門の仁王 2


久昌寺の観音堂。


久昌寺の観音堂の近接写真。


久昌寺の観音堂の隣の地蔵堂。


久昌寺の縁起図。


久昌寺の奥の弁天池の春。古代蓮で有吊な池。


久昌寺の奥の弁天池の古代蓮。


久昌寺の奥の弁天池の秋。


久昌寺の本堂。


久昌寺の弁財天。


久昌寺の「石の御手判《の縁起。右側は、「石の御手判《を和紙に刷った物。


 最終更新日時: 2011年8月19日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.