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札所23番 松風山 音楽寺

所在地
住所:埼玉県秩父市大字寺尾3773

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十三番松風山音楽寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。
畠山基国の家来 内山源蔵
當山は、慈覚大師此処に堂宇を建て給ふ時、余多の小男鹿來って、道の案内をせしゆへ小鹿坂といへり。 誠に絶景の地にて、霊験も又あまたあるなかに、畠山基国の家来、内山源蔵は観音をよく信じける時に、 大内介義弘の討手を、基国命ぜられたれば、源蔵も出陣の役にあたり、武門の面目とはいいながら、 七十にちかき老母に離るゝことを深くなげきければ、老母はこれをいさめていうよう、この守佛は 秩父音樂寺の御影なり。これを懐中して母をおもふときは南無大慈大悲と唱へよ、必ず勝利あるべしと 渡しければ、よろこびて兜のうちにおさめ出陣せし処、この守のおかげにや、危き矢さき剣先をのがれ、 終に義弘敗軍におよび、基国勝利を得て凱陣のうへにて、源蔵は功成り名をとげて身を退き、母もろとも に出家となりて、観音を供養せしに、なお霊験を蒙れりとなり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳」が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝」 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻」(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻」(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、觀音寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第二十三番 松風山音樂寺(御堂五間四面南向)
本尊聖觀音 立像御長一尺六寸 慈覺大師御作
當山の原始は、天長年中慈覺大師關東所々の霊地を開闢し給ふ折から、此地の不常をみ給まひ、此尊像 を彫刻し給ひ、路を開きて堂宇を建させ給ふ時、余多の小男鹿來て案内し奉りし故、小鹿坂の名有。其 後數百歳を經て、亨徳二年癸酉、諸州逆浪起て浪煙天を焦げる時、このあたりは別て物さはがしく、盗 賊此寺に押入て本尊まで盗出けるが、此賊等唯一所に耳徃來して更に他の地へ出る事あたはず、盗賊大 に怖畏して元の如く本尊を皈し奉ける。抑此山や後に松柏生茂り前は東南を見晴して、戸の間笹の戸の 境は山陰の蚊遣に問へり。大宮大野原の田面に下り居る雁も隅なく見へて、荒川は糸を引けるが如く、 無双の勝景~仙の境と云つべし。當寺の霊験事長ければ略す。


松風山音楽寺
 札所二十三番、松風山音楽寺の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所二十三番
     松風山 音楽寺
 この札所は、秩父地方屈指の景観地にあります。観音堂は三間四面 ふき寄せ二重垂木、向拝はありませんが江戸中期の大きな堂です。
 内陣には唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しています。
 本尊聖観世音は一木造り檜材で、像高八一糎、室町時代 の作です。 梵鐘も明和五年の銘が昭和三十二年二月、市指定の文化財に なっています。
 明治十七年田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして 秩父町に崩れこんだという逸話ものこっています。
 天長年間の昔、慈覚大師は関東霊地開拓の折、この地の優れたるに感じ、 聖観世音像を安置し山路を開きたもうとき数多くの小鹿現れて大師を 案内せしめたため小鹿坂の地名となったという縁起があります。
      昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

音楽寺の由来

音楽寺の納経所


音楽寺の稲荷大明神


音楽寺の音楽堂


音楽寺の音楽堂の近接図


音楽寺の縁起図


音楽寺の鐘つき堂。秩父事件でも使われた鐘。


音楽寺の六地蔵尊


音楽寺の13権者の石仏。音楽堂の右側の山道を登って5分くらい場所にある石仏群。


音楽寺の境内の秩父困民党無名戦士の墓。


音楽寺の境内の 岡田先生の句碑。


 最終更新日時: 2011年8月23日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.