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札所22番 華台山 永福寺

所在地
住所:埼玉県秩父市大字寺尾3595

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十二番 童堂 西陽山(華台山) 栄福寺(永福寺)の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記」(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者名:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,服部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記」の下部の「霊場の縁起」については、次のような逸話が 記述されています。
讃州の人化犬
當山、むかしはこの奥にありて、花臺山といひしが、延喜十五年疱瘡流行し時、観音の託宣によって、當所に移し ければ、童子等が疱瘡疾に愈、その後も童子の病いを祈るに、愈ざる者なきゆえ、童子堂といへり。
昔讃州に有徳の農家ありしが、慳貪吝嗇なれば、或時、飢たる行脚の僧来りて、食を乞ども少しも施さず、糠ある をみて、これを乞どもあたへず、余儀なくもって一升をもとめ、門前の犬の器に入れて犬を呼びければ、此家の 寵愛の伜、犬のごとき声を発して走り来たりて、これを喰ううちに、さながら犬のごとき面となる。父母おどろきて、 僧を拜して罪を悔がゆえ、僧その因果を示してこの童子堂に祈れとおしえて去ぬ。これによってその父この犬を 牽て、四国西国坂東の霊場を順拜して秩父に至り、當寺に詣て現罰を祈念しければ、三七日を経て、元の身となりしは、 不測の霊験なり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳」が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝」 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻」(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻」(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、觀音寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第二十二番 西陽山榮n(御堂五間四面南向)
本尊聖觀音 立像御長一尺九寸 弘法大師御作
當山は人皇五十三代淳和天皇の西の院と申奉る御弟、三品式部郷伊豫親王事に坐せられ、河原寺に出て餓死給ひ し御菩提を祈給はんが為、遍照僧正此地の領主に命じて艸創せしむ。元は此奥に有て花臺山と號しき。 其後延喜十五年乙亥天下一同に疱瘡流行、童子の非命に死するを大慈の御心に悲み給ひてや、里の童に 乗移りて此堂を里近く移してよ、われ世の中の童子の命を救と告させ給ふ。郡中の人不思議の事成とて、 急ぎ此地に引移て歩を運ぶ輩引もきらず、疱瘡の患頓に止りける。是より以來郡中は云も更也、近國の 民來て小兒の疾病を祈るに、必不瘉云事なし。凡疱瘡を祈らん人は、必此堂に詣んと祈誓すべし、其験 疑ふべからず。昔讃州に一人の有徳の農民有、一人の男子を持り。此農家は此あたり双なき財産を貯へ ながら、貧海流を納て未だ曾て飽き足ず、百金至れば千金を思ひ、其性暴悪不仁にして人に施し與ふる 事を惜む耳かは、佗人の布施するを誹て、誠に彼らが財を持得ざる事の理かなと、常あざけり笑ける。 一日行脚の僧來て食を乞ふ。主人下僕をして追退て一粒の米だに與ず。僧の曰、然ば其傍にある糠にて、 も給と云。下べども心にあはれみ與まく欲すれど、日頃主人の下知きびしければ敢不與。さらば調ん賣 てたべと、銭取出しければ、主うちえみてそれ與よと升に入て取せけるを、沙門主の顔をつくづく見て 此糠を門の外に有し犬の食物入るゝ器にうち入たれば、此家の寵愛甚き男子、豹の如く這出て、此器に 顔さし入て心よげにうち喰す。父母従者驚き走出る間に、はや首より尾迄忽まつたき犬と成ぬ。彼唐の 酸棗懸の豹頭の新婦もかくや有けん、目もあてられぬ事にぞ有ける。主夫婦血の涙を流して僧を拜し、 手を合て救を求む。僧の曰く慳業の所感吾如何ともせんすべなし、汝早く此豹を牽て四國西國及東の 霊地を巡禮し、秩父に至り童子堂に至れ、必験有べしとかきけして失ぬ。夫婦慳貧の罪を悔て 此豹子 を牽て遠く此處に廻り來て、本尊の前にて三七日祈願しける。満ずる晨、狗子皮毛を脱し、父子泣血百拜 して去しとぞ 此因縁四國の人よく知れる事を也。罪業に依て畜生に生れし因縁、法苑珠林六十五 九丁、大蔵 一覧五 三十五丁 、琅瑯代酔十三 二十九丁 等に多く記す。中にも此讃州の狗の如き現罰例少く、怖しき事にぞ。


華台山永福寺
 札所二十二番、華台山永福寺の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所二十二番
     華台山 永福寺
 この堂は、童子堂と称し、府坂地内より現在の地、 永田城跡に移したと伝えられ近くに城の堀跡が今も 現存しております。
 四注屋根三間四面で周囲に勾欄付の椽をつけ、 欄間や扉には薄肉彫り淡彩の彫刻があります。 山門の仁王門は、童子仁王といい稚拙であるが愛嬌の あるもので童子の名にふさわしい仁王門です。
 本尊は、聖観世音がまつられております。
 この堂は、淳和天皇の御弟、三品式部卿伊豫親王の菩提のため 遍照僧正がこの領主に命じて草創したものといわれます。
 昔讃岐に怪貪な長者があって行脚の僧長者に食を乞えども 与えられず、僧は金を払いて米を求め犬に与えれば、この家の 倅、犬となり共に喰いいる様に親は驚き悲しみ大きく、長者は 僧に因果の道理を説かれ、その犬を引いて諸国の霊場を廻り当 山に来て始めて元の人間になったという縁起があります。
      昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

永福寺の由来


永福寺の仁王門


永福寺の仁王門の童子仁王 「阿像」


永福寺の仁王門の童子仁王 「吽像」


永福寺の仁王門の手前左手の六地蔵


永福寺の本堂


永福寺の本堂の近接図


永福寺の本堂の縁起図


永福寺の身代わり地蔵尊


永福寺のとげぬき地蔵尊


 最終更新日時: 2011年8月21日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.