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札所21番 要光山 観音寺

所在地
住所:埼玉県秩父市大字寺尾2354

観音霊験記
 右の図は、下記の資料より引用した秩父札所二十一番 矢の堂 要光山 観音寺の霊験記の錦絵です。 上部には霊場境内の風景画が描かれ、下部には霊場の縁起にまつわる逸話と挿絵が描かれています。
「観音霊験記《(埼玉県立浦和図書館所蔵資料)
 著者吊:歌川広重(二代)、歌川国貞/画,朊部応賀/編
 出版者:〔山田屋庄次郎〕
 出版年:江戸末期

 右の図の「観音霊験記《の下部の「霊場の縁起《については、次のような逸話が 記述されています。
八幡宮の神鏑
當所は原、八幡宮の社地にて、行基菩薩來たりけるとき、八幡宮勅して、観音の像を神木もて作られしむ、 茲において、この邉の邪神悪魔ども、佛地となれば吾々が住む所なしと大いに怒りて、各々得物を携えて 虚空を轟かし火を降らして暴わわたりければ、八幡宮武甲山におもむきて玉ひて、荒振神々をうながし 玉ひて、邪神どもを追いしめ給ふ時に、八幡宮の放ち玉ふ御矢、一々魔族をつらぬきて茲に落ちたるをもって、 矢の堂と号け、今に霊験あらたなることまゝあり。


秩父三十四所觀音霊験圓通傳
 秩父札所の縁起については、江戸時代の延享元年(1744年)に発行された、沙門圓宗の「秩父三十四所観音霊験圓通傳《が 最も詳しい資料でしょう。慈眼寺から同書の復刻版 「秩父三十四所観音霊験円通伝《 (柴原保教 1976年) が発行されています。また、同書の翻刻版が「埼玉叢書 第三巻《(国書刊行会 昭和45年) と 「建部綾足全集 第6巻《(国書刊行会 昭和61年) にそれぞれ収録されています。 それには、觀音寺について、以下のような縁起が記されています(以下、翻刻版より一部抜粋、ひらがな表記に変更して引用)。
第二十一番 要光山觀音寺(御堂三間四面南向)
本尊聖觀音 立像御長一尺五寸五分 行基菩薩御作
御堂を矢の堂と云。抑この要光山は元八幡宮の社地也。行基爰に到て、此地を開闢せるとぞ。其由縁い と貴し。行基諸國を廻り來て此山に登る。其日既に晩てければ、此の社のあたり成一樹の陰に息給ひ、 すでに丑みつばかりに成ぬ。斯て神歌の扉開音して、此あたり日の如くに光り、須曳有あ頭に白鳩の冠 を頂、身には錦の束帶して、金鋒の尖り矢、七寶の眞弓左右に携へ、面容輝くばかり成少人來り、行基を 再拜して曰、大徳何としてか爰に在、我は八幡の使也、大徳を延て内殿に請ずべしとの勅也、早くあな たに度り給ふべしと。行基時に謂らく、我偃息せる事茅屋茂林の下に上過、何ぞ内殿に上るに意あらん や、應尊物憂と云てまた眠に付給へり。其時神殿奇音高硠して曰、あら面白や是眞聖にて坐せり、我何ぞ 見まさゝらんと、現形鏡の如く山鳩色の御衣ひろく垂て、白御髪打傾、行基を拜し、我は應神天皇の神 也、朕始より佛の教訓の妙成を知れり、然共諸人其善惡を上知、この故に三輪の神に託曰く、僧者は無 為の客也、汚穢事無と、神慶んで黄泉祭を宛、此に於て神佛唯水波の如、是を常世に云ときは同一體也、 今大徳の息給ひたる一樹は代々是の神の木也、今あの片枝ををろし、觀世音を作り此山にまつりませよ。 遍く悪魔の心をなだめ、天の下の民こゝに安からん、我は是より帝と成て天帝の官に神留ん、大徳我こ とはりに違べからず、又是より西南に武甲山と云嵩有、こゝに荒振神集鎮座、大徳今善事を成すによつ て邪神來て邪をすべし、時に我末社の神をして神掃にはらうべしと告終て社祠鳴動、神形光丸の如く、 天の八重雲をち別て飛去り給ひぬ。行基歓喜上淺、則一樹の枝をうつて彫刻し、既に點眼の御法に及け れば、郡中の貴賤皆袖をつらぬ。頓て其日に成けるに、按の如く雨下り高津轟神き鳴て、空の気色たゞ 事ならず。電光を巻て東西にほどばしり、異類異形の邪の神飛散て火を降し鉾を落す。参詣の男女をど ろきさわぎ泣惑、火に焦れ刃に當り身断じければ、行基は唯黙然と座し給へり。時に孤雲にあかねさす 方を見れば、鏑矢空に鳴渡て、惡鬼邪神は朝霧夕霞を科戸の風の吹拂ふ如く、跡方なくうせて、天先霧 の幽成中に聲有て、神力佛力の妙成に引れて根の國の化心はなれぬ。今より秩父嶺の神と共に此土の蒼 生を守らんと云聲谺に響き渡て雲静に風凪ぬ。行基信心倊盛にして點眼の御法障なくとげ給へば、参詣 の男女生の肌断、死の膚断忽瘉て夢の覺たる如く、皆掌を合て神佛の徳をあふぎぬ。件の神鏑の落たる 處故、矢の堂とは吊付けるとぞ。是より永く觀音の霊地と成、今に至て霊験他に異也。


要光山観音寺
 札所二十一番、要光山観音寺の由来については、下の写真のような案内板があります。それには、 次のように記述されています。
市指定史跡 札所二十一番
  要光山 観音寺
 この堂は、通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で他に幾体かの仏像が あります。大正十二年小学校火災により類焼後、今の堂がつくられました。 焼失前は三間四面の堂であったといわれ、境内には聖観世音立像、 百萬遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉句碑等あり盛時が偲ばれます。
 堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎(田舎千両と称えられた) の墓もあって地芝居隆盛の昔を偲ぶ民俗資料としても貴重です。
 昔この地は、元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場になったといいます。
 邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放てる神矢がここに落ち、悪魔退散 したるため吊づけて矢の堂をなすという縁起があります。
         昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定

観音寺の由来


観音寺の境内。中央が本堂


観音寺の本堂


観音寺の本堂の近接図


観音寺の縁起図


観音寺の宝篋印塔


観音寺の八幡宮


観音寺の芭蕉の句碑


観音寺の六地蔵


観音寺の六地蔵の由来


 最終更新日時: 2011年8月21日 Copyright (c) 2011 Antillia.com ALL RIGHTS RESERVED.